いまから、ここから、ひのまる社長の独り言(その68:51年と364日目の誓い)

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今日は、亡き父の7回忌の法要でした。

「心配するな。24日に退院するから。それよりお前の体は大丈夫か? 会社も大丈夫か? せっかくついてきてくれた社員を裏切ることが無いように、まずは自分の健康管理をしなければならいぞ・・」

2008年の10月18日。

それが、父親と交わした最後の言葉でした。

その5日後の23日早朝。大阪出張から戻った私に病院から様態急変の連絡があった時も『すみません。出張帰りで仕事が忙しいので夕方ではだめですか??』くらいの返事をするほど、まさか、退院予定日の前日に急死するとは思ってもいませんでした。

もしかしたら、本人のほうがしんどかったかもしれないのに、そんなそぶりも一切見せず。目の中に入れても痛くないかわいがりぶりだった孫の前で、鼻の下が伸びまくっていたのにもかかわらず、最後の言葉の時には、いつもに増して眼光鋭く、子供の時に『世界で一番怖い存在』だった絶対的存在がそこにはありました。

それから、いろいろなことがありました。いや、周りの人には『ありすぎだよ』って言われます(笑)

父親が亡くなった時私は45歳。自分が結婚したときの父親の年齢である51歳には、必ず会社の基盤を確実なものにして、銀婚式を迎える女房と両親と妹家族と旅行に行こう!って密かに思っていました。でも、父親も亡くなり、会社も自分の生活も瀕死の状態が続き、結局、その夢は日の目をみることはありませんでした・・。

ただ、今日、法要終わり実家で献杯を酌み交わした父の弟たち(非常に近い存在だったのでいまだにお兄ちゃんと呼んでいる)に、
『義規、いろいろあって大変だろう。でも、お前は大丈夫だよ。お前はあの兄貴が人生のすべてをかけて育て上げた男だからだよ…』
と言われ、父の葬式の夜のことを思い出しました。

突然の死に悲しむ暇もなく、ただただ最後くらいは男の花道を盛大に送り出してあげよう・・と、当時できることはやりつくしました。

幸か不幸か、会社を興したばかりで、かなり注目もされていたので献花もそのお寺でかつてないほどの本数が集まり、自分自身はなんとかやりきったような安堵な気持ちになっていました。そして、喪主としての最後の言葉を考えなければ。。という次のミッションに向かおうとしていました・・・。

と、その時、ある疑問で頭が一杯になりました。

以前、父親の若いころの写真を見せられ、親戚の人たちにもこういわれていました。「お前のお父さんは若いときはすごかった・・。いわゆる学生企業家で政治家の秘書をやり、芸能人との交流もあったんだよ・・」

確かに、その写真の父は、多分当時はバカ高いスポーツカーに乗り、ルックスもなにかも恰好よかったです・・一歩間違えると・・みたいな感じでもありましたが・・・。

では、なんでその父が弁当屋さんなどを初めて朝から晩まで働いていたのだろう・・・、そこに何があったのか、それまで真剣に聞いたことはありませんでした。友人の借金の保証人になって・・みたいなことを少し聞いていたので・・なんか聞きにくかったのです。

そこで、思い切って、父の弟たちに聞いてみました。

『なんで、お父さんはあんなに派手だったのに、弁当屋さんなんて初めて苦労を買うようなことをしたの??』

その時の返事は一生忘れません。

『バカだな、それは義規、お前が生まれたからだよ。お前を授かって、兄貴は一生かけてお前を立派に育てるためにその道を選んだんだよ。あと、俺たちも兄貴を慕って佐賀から出てきていたし・・。だから、兄貴の人生は25歳から今まで、子供の、兄弟の、家族のためにすべてを捧げた人生だったんだよ』

絶句でした。

あと数時間で52歳になります。

前述したように、私が結婚して、なんとかその責務を全うしたであろう親父の年齢・・それを越えることになります。

ある意味、子供のいない自分にとって一生、父親を越えることはできません。でも、これから死ぬまでの人生、私に脈々と流れている父親の血『絆』を感じながら、自分の夢を追いかけていこうと思っています。

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52歳、永瀬義規の新たなる門出とできるように、これまで以上に己を尽くしていきます!!

長文、読んでくれてありがとうございます!!!

永瀬 義規

いまから、ここから、ひのまる社長の独り言(その68:51年と364日目の誓い)” への1件のコメント

  1. お誕生日おめでとうございます☆
    何時も支えて下さる会社の皆様、友人の皆様、親戚の皆様に感謝ですね。
    健康で素晴らしい一年になりますように(*^▽^)/★*☆♪

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