いまから、ここから、ひのまる社長の独り言(その38:私のヒーロー!『昭和の三四郎』岡野功

その柔道家を知ったのは、小学生のころ。

戦国時代の武将好きだったため、貪るように偉人の伝記を読み感化されていた私が、ふと手にしたのがその柔道家が
それまでの柔道生活を記した単行本でした。

本のタイトルも、中身の詳細もほとんど覚えていませんが、
『これだけ練習しないと世界一にはなれないんだ』
『中学生で耳がつぶれていないと恰好わるいなぁ(笑)』
と思っていたことは確かでした・・・。

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その柔道家との初対面が中学生の時、柔道の私塾『講道学舎』でのことでした。

当時のことも、正直、あまり覚えていません。ただ、筋の良い後輩に背負い投げを教えているのを陰で見て、やけに
その理論的な指導に感動していました・・・。

大学進学を決めるとき、その決め手となったのが、その柔道家の存在だったことも嘘ではありません。

そして、その柔道家との強烈な思い出は、大学4年になる直前の勝浦合宿でのことです。

当時、とにかく、強くなりたくてライバルたちには絶対に負けまいと朝のランニングでは必ずトップを争い、午後の乱取り
でも、元立ちを進んでこなして、たぶん20~30本くらいガンガン稽古をしていました。

ただ、午前中の寝技稽古の時だけ、寝技が苦手な私は、正直、少し手を抜いていたように見えたのかもしれません・・。
そんな時です。

何本目かで当たった流通経済大学の学生との寝技稽古の時、亀になって相手の攻撃をただ時間稼ぎをするかのようにこらえていると、
ふと、凄いさっきを感じました。

顔を上げた瞬間、目の前が真っ暗になりもんどりうってすっ飛ばされ『貴様、中大のレギュラー候補がそんな練習をしてどうする、
今すぐ道場から出ていけ!!』という声だけが頭に響き、目の前にその柔道家が仁王立ちしていました。でも、その柔道家は
流通経済大学の監督で、なんで俺が怒られなければ・・、と思いながらも、すぐに立ち上がり『す、すみません・・』と言って
稽古に戻りましたが、顔中が痛くて、その日の午後に(その時は頭をけられたと申請して)、コーチに言って、一日早く
大学の合宿所に帰る許可をいただきました。

正直、その時は『稽古をさぼれる。それも公式に』みたいな気持ちで帰路に着いたのですが、勝浦から東京駅に行き、そこから
電車を乗り継いで、八王子の合宿所がある南平を降りるときは、口の中が痛くて、痛くて気絶寸前。

これは、頭ではなく、口だな・・と、駅を降りてすぐの歯医者に飛び込みました。

すると、レントゲンをもってきた歯科助手が「これは、ひどい」という声が聞こえ、先生から「君、前歯三本、根っこで折れているけど
どうしたの??」

マジすか・・・。

と言っても、あまり大したことと受け取らず、すぐに差し歯にしてもらい、現在は7年前にインプラントできれいになっていますが・・。

そして、就職し、近代柔道の編集長でその柔道家をことあるごとに取り上げ、ようやく名前を覚えていただき、そのあと、縁があって
eJudoの代表取締役としてお会いする機会が増え、お宅にお邪魔しては編集長の古田君と感銘を受けていました。

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昨年、状況が変化して、頻繁にお会いすることがなくなり非常に残念だと思っていた矢先、その柔道家が母校の第五代目の師範に就任という
話が持ち上がり、なんとかお願いして受けていただいたと聞いた時には本当に涙が出るほど嬉しかったです。

昨日の中大柔道部歓送迎会で『自分の柔道人生の集大成にしたい』と仰り、FBでもご報告しましたが、このブログでもご紹介させていただきました。

昭和の三四郎

岡野功

私の中でヒーロー中のヒーローであるこの稀代の柔道家からこれからも様々なことを吸収できる喜びを実感しています。

いまから、ここから、日々勉強、勉強です!!

あ、岡野師範は、私の歯のことはまったく覚えていませんでした(笑) スケールが違いますね・・・(*_*)

永瀬 義規

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いまから、ここから、ひのまる社長の独り言(その38:私のヒーロー!『昭和の三四郎』岡野功” への1件のコメント

  1. 岡野先輩は龍ケ崎一高柔道部で稽古つけて頂きました田口隆茂と申します。 唯根勉と同級生です。
    利根町在住です。

    末永くご健康で、ご活躍頂きたいです。

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