托鉢という修行

こんばんは、ひのまるキッズ事務局の原です。
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そして、今日は「托鉢」という修行を紹介します。
私はこの行を知って、物事は考え方次第で全く違う捉え方が出来るのだと感じました。
そして、その考えが信念として行動し続けられることならば、大きな結果に結びつくのではないかとワクワクするような内容でした。
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およそ2500年前に、お釈迦様は「托鉢(たくはつ)」という「行」を考えました。
弟子たちと竹林で共同生活を送っていたお釈迦様は、ある日、弟子たちに
「明日から托鉢というものをやりたいと思う。みんなでお椀を持って托鉢に回ろう。
だから、今日はどこかでお椀を手に入れよう」と話しました。
翌朝、実際にみんなで回る前にお釈迦様はこう言いました。
「托鉢にはひとつだけ重要なポイントがある。
托鉢をする時に、お金持ちの家を回ってはいけません。貧しい人々の家を回って托鉢をしてきなさい」
弟子たちはとても驚きました。
「それは言い間違いですよね。何か別の考えごとでもなさっていたのでしょう。
貧しい家を回ってはならない。お金持ちの家を回りなさい。これが正解ですよね」
「間違って言ったのではない。もう一度言う。お金持ちの家を回ってはならない。
貧しい人々の家を回って、托鉢をしてきなさい」
「なぜですか? その理由を教えて下さい」
すると、お釈迦様はこう言ったのです。
「貧しい人々というのは、自分が貧しいので人に施しができないと思い、
今まで施しをしてこなかった人々です。そのために苦しんでいる。その貧しさの苦海から救ってあげるために、あなたたちは托鉢に出向くのです」
「自分には施しをする力がないから、財力がないから、施しができない」
と思ってきた貧しい人々は、施しをしなかったがゆえに、実はお金が入ってこなかった。
「自分にゆとりがあったら、施しができるのに」
という思考回路は、宇宙の法則には当てはまらないようです。

駅前などで托鉢をしている僧侶をよく見かけます。鉢にお金を入れると、
僧は「ありがとうございます」とは言いません。
経文を唱えて、チリーンと鈴を鳴らして、合唱します。
それを見て「お金を入れて上げたのに、ありがとうの感謝の気持ちがないのか」と思うかもしれません。
本来は、自分が「ありがとうございました」と頭を下げるのが正しい作法です。
「私」のお金を正しく美しく使ってもらうために、生活に差し障りないお金を喜んで差し上げる。
その施しをすることで、どこからかご褒美をいただくというのが「喜捨」というお釈迦様の教えです。
駅前で托鉢をしている僧は、お金をもらうために立っているのではなくて、
もらってあげるために立っているのです。
わざわざ私たちに施しをさせるために、出向いて下さっているのです。
こういった因果関係がわかると、こちらから「ありがとうございました」と言えるようになるでしょう。
お金が余っているから「喜捨」するのではなく、先に、生活に差し障りないお金や物品を差し出すと、
それが喜ばれる形で使われた結果として、自分のところに返ってくるようになっているらしい。
「ゆとりがあったら、施しができるのに」と思っている「ゆとりのない人」は、
施しをしていないがゆえに、ゆとりがないわけです。
投げかけたものは返ってきます。返ってくる時は倍返しです。
愛情を投げかけると二倍の愛情が返ってくます。プラスもマイナスも必ず倍返しです。
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「ごえんの法則」小林正観著 大和書房
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皆さんはどのように感じましたか?

不機嫌を投げかけた人は、不機嫌にならざるを得ない出来ごとが返ってくる。
笑顔を投げかけた人は、笑顔になるような出来事が返ってくる。
投げかけたものは返ってくる。投げかけないものは返らない。
それが宇宙の法則であり、お釈迦様の教えだという事です。

ただ、捉え方を変えると、
弟子たちに対しては、ただの物乞いではなく、施すことの大切さを説くという使命を与え、
庶民に対しては、弟子たちに施しをすることが徳を積み貧困から脱することだと説く。

最高のコストパフォーマンスで布教活動がなされたのではないかと。。
想像してしまうのでした。

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